沖縄が1972年5月15日に日本への復帰をはたしてから、きょうで40年になります。
復帰の実現は、27年間のアメリカの軍事占領下で苦しめられてきた県民が島をあげて運動を進めた結果です。“核兵器も基地もない沖縄を”の願いに反して、沖縄にはいまも米軍専用の基地が33もおかれ、日本国内で異常な基地集中県となっています。基地をなくすには日米安保条約をなくすことが一番です。「復帰40年」を機に、安保条約の是非を問い、米軍基地もなくしていく議論を巻き起こすことが重要です。
不屈のたたかい
沖縄県民は、アジア太平洋戦争末期の地上戦と米軍占領下で、言語に絶する苦しみを受けました。形ばかりの「琉球」政府がつくられたあとも、米軍の不当な支配に対して血と汗をもってたたかいました。まさに不屈のたたかいです。
米軍は軍事占領中に住民を収容所に囲い込み、その間に土地を取り上げて普天間基地をはじめ基地をつくり、「銃剣とブルドーザー」で家屋を壊し焼き払って拡張しました。国際法をじゅうりんしてつくった基地がいまも存続すること自体、世界にない異常です。
6歳の少女を拉致・暴行し殺害した「由美子ちゃん事件」(55年)などの米軍犯罪や、小学校に米軍機が墜落し多数の死傷者をだした宮森小学校事件(59年)など悲惨な事件・事故も相次ぎました。
米軍の土地とりあげに島ぐるみで反対し、沖縄の「祖国復帰」を実現しようと「沖縄県祖国復帰協議会」が結成されたのは60年4月28日です。沖縄の米軍基地がベトナム戦争の出撃拠点になるなかで県民のたたかいは大きく燃え上がり、当時のスナイダー米国務省日本課長が68年に沖縄返還は「引き返し不可能な地点にいたった」と報告したのはその象徴です。
こうしたなか、日米両政府が沖縄の「返還」で合意したのは戦後四半世紀もたった69年です。しかし日本政府は復帰時に安保条約を適用して沖縄の基地の存続を保証し、米軍の核兵器再持ち込みを認める密約まで結びました。そのためいまだに日本の総面積のわずか0・6%しかない沖縄に面積で74%の米軍基地が集中しています。
爆音被害や墜落事故、米兵犯罪などによる県民の苦しみは占領時代と何も変わっていません。復帰後最大規模の県民の抗議を呼んだ95年の米海兵隊員による少女暴行事件はその代表です。
米軍基地が地域振興や経済発展の障害にもなっている事態はいよいよ深刻です。沖縄県自身が「沖縄21世紀ビジョン」のなかで「基地の存在」が「経済発展の可能性を阻害」と指摘しています。
日米政府を追い詰めて
自民党から政権交代した民主党の野田佳彦政権が異常さをそのまま引き継ぎ、県民に基地の重圧を押し付け続けるなど許されないことです。普天間基地を即時閉鎖・無条件返還させるとともに、新基地建設を許さず、沖縄から基地をなくしてほしいというのが県民の切実な願いです。最近の地元紙などの調査では安保条約への否定も7割強にのぼっています。
6月の沖縄県議選は復帰40年を迎えた県民の意思を示す重要な機会です。安保廃棄の旗を掲げる日本共産党こそが、基地なくせの県民の願いを実現できます。